昭和41年01月05日 朝の御理解
おかげを受ければ受ける程、おかげを受けて忙しければ忙しい程、信心の時間というものが頂けれる、ゆとりのある信心を身に付けたい。忙しいと忙しいで終わりおかげを受けるとそのおかげにあぐらをかいて信心が手薄うなる。
大体人間は、そう言う様な弱い、そう言う様なものを、皆が持ってるんです。楽になると楽になったり、返って信心が出来ん様になる。儲けだしたら儲け出したで、神様えおろそかにする様なる。忙しければ忙しいを、口実にしてお参りが出来ん様になる。おかげを頂けば頂く程、忙しいければ忙しいほど、お参りの出来る信心のその、ゆとりというものが大事なんだ。
皆が悲しい時の神頼みと言う様な言葉がありますが、どうもその神様といや難儀な事を助けれ貰い困った時に頼む。自分が苦しい時に一生懸命になるのが信心の様に思うておる。それではね、お道の信心じゃないのです。そういう思い方では。ですからどうしても信心を本当に身に付けて行くと云う事はですね、おかげを受けた暁にほんとにいよいよ神様に喜んで頂けれるおかげ。
それは私は忙しけりゃ忙しいでおかげを受けたら受けたで、よりお参りならお参り信心がです、出来れる、ゆとりのある信心を身に付けていないからだとこう思うですね。あれも成就是も成就と言う様な事になって参りますと信心が薄うなる。不思議な事ですけれども、そういう人間は通有性を持っておる。しかし信心とは、そう言う様なものがです。いよいよ無くなって行くというか、普通の人間の考え方というその考え方。
物の見方考え方というものが、もう根本的から、おかげを受けておるからこそ、信心をさせて貰うのだ。おかげを受けておるからこそお礼参りをさせて貰うのだと。どんなに信心が分かったからというて。おかげを受けたからというてです。いよいよそこんところの信心が疎かにならん。もう先生も信心が苦しか事出来ません。こういう信心では私は詰らんと思うですね。そういう人は本当の私はおかげにならんと思う。苦しい時でなからなきゃ本当の信心が出来ん。
成る程苦しい時にはやっぱり尻に火が付いた様な時ですから信心も出来ますけれども、その信心がです、その信心が今申します様にゆとりのある信心を。そういう時に本気で身に付けさせて頂かなければいけん。大阪の玉水の教会の、ご信者さんのあの呉服屋さんの話を何時も私が、例話で。それこそ、日に何回となしに教会に参られる、ご主人が。奥さんやら息子さんが、まぁ朝と晩だけ位で、今日からどうですかと。それもよいけれどもお参りして帰って来るともう、一生懸命お店が繁盛しとる。
もう有難いと思ややっぱお礼参りせにゃおられん。 有難いと思うてお礼参りして帰って来ると思いも掛けない所から注文が入っておる。思いもかけない所から集金が入っておる。お礼参りさせて貰わにゃおられんじゃないかと言われたという話がある。お礼を申し上げる事は纏めてから。お願いはかつがつ。これではやっぱりかつがつ位じゃないですね。皆さん大体そういうおかげを受けた方がいいんじゃないでしょうかね。
お互い。深刻な悲壮な顔をして、はぁそんなの知らずと言うのじゃなくてです。おかげを頂きましてこれこうで御座いましたと。おかげを頂きましてこういうおかげを蒙りましたと、そのお礼から、お礼が続けられる信心。喜びから、喜びが生まれて来る信心。そこにはじっとしちゃ居られないという。是は信心が分かれば分かる程中村さんのお話ではないですけれども。
親鸞聖人様のお話を頂く「いちみよきち」と言うという信じゃさんが毎日々お話を聞きに行く。聖人様がまぁ道楽信心の様な風にでも思われたのかも知れません。私の話をそうやってよう聞くが。返ってそれでおかげを落とす様な事があってはならんと云う事を話された。時に「そのみよきち」さんが言われた。「落ちるこの身は十八願のうちと思えば危なげはなし」という詠を持ってお応えしたという
。聖人様あなたがおかげを落とすと仰るけれども、そのおかげを落としたそこの先とても、矢張り阿弥陀如来様のお懐の中であると思う。例え、それが地獄であっても、その地獄の中でも仏様のお心の中だと。お懐の中だと思えば危なげは御座いませんと申し上げた。信心が分かった。そうなんです。信心が分かったと云う事はそう云う事なんです。たまがられたんでしょうね聖人様が。それ程の信心を身に付けておるならば、なおさらお参りしないでもいいじゃないかと言われた。
けれども聖人様こうして日々私共の為に信心を続けて下さり、私共の為に祈って下さり、私共の為に御修行下さっておる、親様の事を思うたら家にはじっとしてはおられませんと申し上げたと言う事。もうここに至って私は信心のいよいよ分かった人の姿であるとこう思うのです。例えばおかげを落としてもです、そこは仏様の願いを全部と言う訳でしょうね。十八願というのは。そういう願いの中であると思えば危げはない。
それ程に信心がいわゆる分かった。そんならもうそげん、参ってこんでもいいじゃないかと。けれども親様のご苦労を思うたら家にはじっとはしておられない。というところに私は信心のゆとりというか。本当な信心の姿というのが私はあると思う。苦しい時には一生懸命じゃった。所が少し楽にならせて頂いたら、あ、忙しき事を口実に、それこそ口実にならない様な口実を口実にして神様から離れて行く。
これでは神様もうおかげのやり甲斐がない又それで本当なおかげの頂けれる筈もないって。お互いが日参り夜参りでもしなきゃおられない。程に例えば苦しい事というか、おかげをどうでも頂けねばならんと云う事があるからこそ信心に熱も出るのだけれど。その信心の熱がある内にです、本当な只今私が申します様な信心を体得してそこんところが本当の思い込みが出来させて貰うてね、忙しけりゃ忙しい程おかげを受ければ受ける程信心に使う所の時間というものがです。
ゆとりが出る程の私はおかげを頂いて行かなければ本当な事ではない。人間が持っている通有性が、はぁ是はやっぱ普通の人間と同じ事。是をおかげをやらまた信心を落とすに違いはないからというて神様が慌て回っておかげでも下さらんと。言った様な事でも成り兼ねないと。私は思うんですよね。どうでしょうか。忙しければ忙しい程ね。おかげを受ければ受ける程。もう一緒にまとめてからお礼を申し上げようと言う様な事ではなくて、もうカツガツお礼を申し上げる。
昨日午後からでした。伊万里から電話が竹内先生から電話が掛った。丁度その先生が奉仕しておる時でした。どう言う様なお届けであったかと言うとあちらの信者さんに熱心に非常にまたは、伊万里でも指折りの大きな暖簾をもった、ここに押してある御霊様でも七代か八代ぐらい前から御霊様預かってある。いわゆる、由緒あるお店なんですね。酒屋さんです。食料品をなさっておられます。
ところがいうならまあ左舞い、もうあんまり調子が良くない。それでまぁここにお参りされた当時なんか非常に困っておられた。でひとつひとつこのまぁ息子さん達の上にも広大なおかげを頂いてまいりましてですね。段々こうおかげの頂けて来るこう雰囲気が生まれて来たんですね。所が今度の正月にあちらへ竹内先生の所に、毎晩こうあの御理解を頂きに行かれる訳ですね。テープを借りて行っておっれますからね。
あちらへそのお参りをされる。それでそのお届けをされるのにです、今年の正月はもう本当に有り難い正月であったということ。その庭に梅の木があるらしい。もう今までかってなかったんですけれどもね。その庭の梅の木にですね、鶯がきてそのホーホケキョと鳴泣きよるち言う訳。ほんとにこれは天地の親神様がです、いよいよ信心辛抱させて頂いたらホーホケキョと言う様な鶯が来て止る様なおかげにもなるぞと。天地の親神様の声を聞く様な思いがまぁ、したというので竹内先生の所においでられた。
竹内先生はそれをそのまま、すぐその態々伊万里から電話でその事だった。神様にお礼を申し上げて下さい。こう言う様な有り方になったらですね、私はおかげは頂けない筈はないと思うですね。おかげがこうもう現われ、せめてもうあれはおかげを頂いてしもうてからお礼を申し上げようというのじゃなくてです。これは去年だったでしょうか。それもやっぱりそんなお届けがあった。竹内先生のところに大きな亀が入り込んできた。本当に。亀といや椛目の親先生。
もうこげなん有り難い事はない。やっぱりお礼を申し上げないかんと云う様な風です。ね。それこそこのまぁ、次にお参りした時にお礼お届けすれりゃいいけれども、もうほんとにおかげを頂いたと云う事はもうその場その場でですね、お礼参りが出来るその事がお届けが出来ると云う様な信心は、矢張りゆとりが段々出来て来なければ出来ないと思うですね。おかげを受けて段々商売、例えば商売なら商売も繁盛して来た。
もうばさらかその神様にああいうてお願いせんで良かごとなって来たち云う訳。そうしたらほんなこてお願いせんで良かごと成って来た。神様が遠ざかった。そうしておかげをまた落として行くと言う様な事ではです。折角頂いたおかげが返って廻りを作る元になる様な事で神様がやら本当のおかげを下さる筈はない。昨夜の御理解の中にも有ました様に、ほんとに天衣無縫のおかげをを頂かせて貰わにゃ。
昨日私が奉仕しておる時にある人がお参りして来た。先生御造営が始まっておりますけれども、ほんとに自分の思う様なおかげも頂かれませんち。それで福岡の方です。勤めに出ておりますからそのんちいうですかね、宿直ですか。以外の日は必ず椛目にお日参りをさせて頂く。宿直の日だけはご無礼をするけれども、お日参りを続けさせて頂きたいと。 思うからせめてその事にででも、神様に自分の思いを現したいとこう言われる。それは結構です。有り難い。何と言うてもね、御用が出来ると
。例えばお供えが出来ると言う様な事の前にです。先ず矢張りその信心が出来なければいけん。先ず信心が土台なんだ。けれども○○さんその信心が出来るとね、必ず御用の出来れるおかげを頂くよと私は申しました。私はもう何も出来んから一生懸命信心をさせて貰うと。そりゃあ福岡の遠い所からも、お日参りでもさせて頂こうとこういう。その信心がほんとに出来たらね。御用の出来れるおかげを下さらん筈はない。御用が出来ん御用が出来んと言うのは言いわけなんだ。
大体御用はもう自分は出来んと思い込んどる。そう言う様な事ではおかげは受けられない。御用も出来んから信心に打ち込む。どこからでもお日参りをさせて貰うと。そういう信心したら御用に使うて下さらん筈がない、神様が。そういう例えば、いろんな信心を頂いておると思うけれども、そういう信心をさせて頂いておるのだけれども、おかげを受けられんならばです。
そのお参りの内容がまぁだおかしいからなんですよ。先程のその方にも申しました様に。あんたのその信心が出来れば御用が出来る様になると私。もし御用が出来んとするならば、お日参りしたけれどもその内容があまりまずいからだと。神様、この神様はそんな神様じゃないって。そんな無力の神様じゃないって。ね。御造営が(?)進められておるけれどもね、人並みの御用が出来んから信心に打ち込ませて頂くとこう。
信心に打ち込ませて頂きゃ、神様は御用に使うて下さらん筈は絶対にないです。ね。信心に打ち込んだ、もう信心だけ。そう云う事はないです。信心に打ち込みゃ打ち込む程です。なら御用にもまた使うて下さるのです。けれども御用に使う頂いたけんそのおかげが受けられんというならばです、その日参りの仕方信心に打ち込んでおるというけれども、その打ち込む焦点がです間違っておるです。
ほんなもんじゃないと、云う事を悟らせて頂かにゃいけん。先ず自分は何も出来んから、さあ一生懸命のその体での御用。一生懸命お参りさして頂く様な事、修行でもさせて頂いて願うと。そういう信心をさせて頂いたらです、神様が使うて下さらん筈は絶対にないという私は思い込みを、お互いが持たなければいけないと思うですね。これはなら私お話だけじゃないです。
私が20年前に、そのもうほんとにそれこそもう神様にほんとに御用に使うて頂くという、頂きたいという一生懸命信心させてもらやです、確かに出来ただけは間違いはないですから。私共引き揚げて帰って来ていうならば、なにもない時代にです。あちらに一年祭があったり、あの土地の事で大変お金が入りがあったり致しました時にです。やっぱり私はもう一番、一番いうならばです。
修行のどん底であったけれども、その御用だけはお許しを頂いて来たから私は出来て、私が体験から申し上げる事が出来るのです。その代わり勿論、生易しいものではありませんでした。おかげを頂きたいと。おかげを頂きたいと思うたらです、もうほんとにおかげを頂く気になりました。どうでもこれだけのお金が教会でいると。総代さん方もそのそれこそ頭付き合せてから、心配しておられますけれどもありません。そこで私がまぁ、末座から申しました。
あの時分は非常にこのふりてが値打ちのある時分です。お金が着物がこの純綿といや大変値打ちがある時代なんだ。着物も自由に買えないという時代なんですからお互いどうでしょうか。自分の着物ば一枚づつの減らす気持ちになったら出来ますよと私申しました。それはそうじゃろうばってんち総代さん方が言われました。というて私それを放す、放す気があった。
北京から持って帰っている中に家内のいわゆる、紋付きが残っておりました。家内に相談してからそれを外させて頂く事に決めた。今の岸さんという総代さんのお家がその当時お菓子屋さんと質屋しておられました。ですから私があちらへ持って行って、うんもって行きました。所がですね神様は、向こうから、それは返しに見えたのです、そのそれだけの金はまぁ、貸されないからかなんか。
今のあそこの婆ちゃんが総代しておられます。あの人がわざわざここまで持ってきて返しに来られました。これはもうがっかり致しましたですたいね。所がです、それだけこちらが填まったら神様が、それは使わせなさらじゃったと云う事になったんです。神様他の所からおかげを下さったです。問題は腹でしょうが。ね。そりゃ私共何もなかけんで出来ん、もうほんとに出来んものに決めてしもうとる。
私は今、これは本当な事じゃから口を張って申しますけれども、一番言わば最低の信者ではあったけれども御用だけは最高の御用をさせて頂いて来たと云う事です。(?)親戚からお金も借りました。少しばかし私北京から持って帰えって来着物ももう殆ど無くなりました。どうでもおかげを受けたいと。私今日皆さんに分かって貰たいと思うのはです、先程申しました、おかげを受ければ受ける程ね、忙しければ忙しい程、信心がいよいよ出来て行く様なおかげを頂きたい。
それだけのゆとりのある信心をさせて頂きたいと。それにはです只今私が申しました様なです、お願い事はかつがつだけれども、お礼は纏めちから一遍にと云った様なのではなくてです、そのお礼こそかつがつさせて頂かなきゃならん。そのお礼とてもいよいよここはと云う様な時にはです、やっぱり填まったお礼をさせて貰わにゃいけん。そういう信心から私は本当の信心が育つ。
是も昨日福岡から参って来た方。やっぱり御造営に関した事であった。だから神様がそのほんとにそれこそ何も出来んからねお参りも出来ない。一つ改まりでもさせて頂いてから神様のお礼の印にと言われる。所がです小さい大根なんですよ。もう葉がもうこう枯れとるごとジワーとなってしまっとるです。そしたらそれを剪定鋏の様なこう植木鋏の様なものでチョキンチョキンと神様切って下さるけれども、かたっぽの葉がジワーとしとるけんいっちょん切れん所ば頂いた。
改まりたい、改まりたいと言うとってもです生き々したものがなかにゃ切れん。チョキンと云う事は、神様の徳と云う事だろうと思うんですたいね。改まらせて下さい改まらせて下さいと言うたちゃった、こちらに、生き々としたものがあって、初めてスパッと切れるとです。(?)本当の改まりとい、う本当の生き々した元気な心がないで、改まりたい改まりたい十年二十年言い続けたって、改まりは出来やしません。本当にこいらがしゃんとした時ですね。
それで皆さん体験あるでしょうが。包丁でいっちょ切るんでん、ジワジワしとっちゃ仲々切れんでしょうが。大根葉ひとつ切るでもね。それをそのシャキ、シャキシャキとしとったらスキスキ切れて行くでしょうが。改まりの事だってそうなんです。ね。だから改まりたいというその殊勝なの心。私は御用が出来んから信心でも一生懸命打ち込みたい殊勝なの心。けれどもそれだけの殊勝な心を出したらならばです、御用に使うて下さらん筈はないのです。
改まりたいというその殊勝な心がです、あるならばです、本気でそれをです、生き々した心で、改まらせて頂く事を、願わなければならんでしょう。私はそういう信心からしか、私は信心の本当のゆとり。ただおかげを求めて、おかげを頂いた、というだけの信心ではです、おかげを受ければ忙しゅうして、お参りしようと思いよりますばってん、ご無礼する。始めはそうんなんだ。もうそれけんもう先生もう盆と正月位に一つお参りだけさせて下さいちいうな人もある。
それけん本当に盆と正月位参って来ると思うたら、始めの間は参って来ると思うと三年経ち五年経ちしておる内にもう盆も正月もお参りも出来んごとなる。それは人間の通有性なんだ。それではいけんですからですね。お互いがお参りそのお願い、おかげを受けなければならん為に一生懸命信心させて貰、やっぱり尻に火がついた様な思いでお参りをする。その時にです私が今日申しました様な、一生懸命な信心を身に付けさせて頂いとかなければいけんと思うんですね。
どうぞ。